高嶋慈(美術・舞台芸術批評)
3つの短編を挟むプロローグ・エピローグで構成されるオムニバス形式の音楽劇。海底に沈んだくじらの死骸を中心に形成される生態系「鯨骨生物群集」に想を得て、くじらの死骸が様々な生物群によって分解されるように、「死者の生前の意思は、生きている者の意思によって咀嚼され、再構築され」ることをテーマとしている。各短編で描かれるのは、1)「大切な友人」が亡くなる直前に自分宛に買ったプレゼントが何だったのかを知りたい一心で、彼女にまつわるデータをAI搭載ヒューマノイドに学習させて「人格の再生」を試みる研究者、2)自殺した友人への罪悪感から、死者の情報を元に生成される「模造自我」との「交信」を行なう女性、3)それぞれ双子の片割れが死んでいる、重なり合わない平行世界に生きる双子の姉妹が、夢と現実、生と死のあわいのような領域で交わす会話、である。
全体的な演出としては、舞台美術(佐藤由輝)、ソプラノ歌唱(原田菜奈)と打楽器の即興演奏(谷口かんな)による音楽、衣装(山下彩)で構成される世界観の表現が繊細だった。また、暗闇の中、「シューッ」という息の音の重なり合いで海底のざわめきや風の音を表現するプロローグに始まり、言葉遊び的な発語の重なりやリズム感を表現する俳優のアンサンブルも魅力的だった。元々の戯曲の表記も特殊で、台詞の同期をタイムライン化して記述したり、マラルメの視覚詩のように余白を活かして語句を星座のように散りばめている。こうした戯曲の性格に加え、音楽的アプローチを明確に打ち出した背景には、劇団主宰・演出家のnecoが、京都市立芸術大学のミュージカルサークル出身で、オペラの演出や舞台監督助手もつとめたという出自や経歴もあると思う。
(後述するが)3つの物語は、「死者の言葉を一方的に領有すること」の倫理や葛藤を扱うというより、二項対立的構造や相反する要素の共存を強く感じた。本当の自己/人工知能の模造、本物/ニセモノ、真実/虚構、私から見たあなた/あなたから見た私、あなたのいない私の世界/私のいないあなたの世界、鏡像のような左右逆転、鏡に映った私という他者。こうした対、表裏、鏡合わせの関係は、台詞の発語や舞台美術によって補強されていた。台詞を「音」として重ねながらずらすことで、対になったり互いに打ち消し合う発語。また、舞台美術では、くじらの骨が横たわる海底が奥に、岩が顔を出す水面が手前に表わされ、海底とも海面上ともつかない両義的な空間が立ち現れる。奥の空間=死者(の模造自我)の領域は林立する骨によってバリケードのように囲われ、手前の空間=生者の領域と隔てられている。その両者の境を流動的にさまようソプラノ歌手は、死者としてのくじらを仮託されると同時に、劇中人物にメタな視点で語りかけ、(一人だが)コロス的役割も果たす。
ただ、3つの物語の相関性やテーマとの整合性の点で、戯曲には疑問が残った。1話と2話は、「記憶のコピー・移植によって人格は完全に再現できるか?」というテーゼを提出する点で重複し、「SF」としての目新しさもない。3話における「死(者)」は、作中で「箱を開けるのは、私たちじゃない」という台詞が示唆するように、「シュレーディンガーの猫」の並行世界を描くための要素にすぎない。
「くじら」とその死骸を糧として生きる海中生物群という有機的・神話的世界観と、AIに「データ」としての記憶を学習させて「人格」「模造自我」を生成する近未来的SF世界とは、齟齬があるのではないか。さらに言うと、「データの学習による人格の再現」は、べつに対象が「死者」でなくても成立する。例えば、記憶喪失や認知症。あるいは、1話において「大切な友人」の本心の解明に執着する研究者が、独占欲と表裏一体の恋愛感情を抱いていたことがほのめかされるように、「自分の理想通りにふるまう完璧な恋人」を作り上げるピグマリオン的欲望。本作では、「友人」も研究者も女性が演じることで、「男性が女性をモノ・人形として支配する+異性愛中心主義」という構造は回避されていたが、それ以上に「全員女性で演じる劇団」の意義があまり見えてこなかった。劇団三毛猫座は特にフェミニズムを打ち出している訳ではないが、「女性だけで演じる」ことの批評性をどう自覚的・戦略的に提示していくかが、今後問われるのではないか。
本作では総じて、「死者(の言葉)を一方的に領有する」という欲望や暴力性が、「他者の記憶やデータに基づく人格の再現は不完全なコピーにすぎない」というテーゼの提出にすり替わってしまったと思う。だからどちらのケースでも、「こんなのあの子じゃない」「失敗作」と否定され、あるいは精度が落ちて自壊してしまう。だが、「生者による死者の一方的な領有」という問題は、より大きな文脈では、例えば「平和の礎となった戦没者の慰霊」「震災など大規模な災害の死者の追悼」において、個人の差異は捨象され、「われわれの存続基盤に捧げられた死」として都合の良いように上書きされ、ナショナルな共同体の幻想を強化していく。そうした視点があれば、本作の根底にある問題意識は、より社会的・批評的広がりを持つのではないか。